2012年6月17日日曜日

医療を考える

最近は、日本語の本をあまり読まなくなったけど、それでも、ポートランドには紀伊国屋書店があるので、時々のぞくようにしている。近藤誠というお医者さんの書いた「がん放置療法のすすめ」というのが、おもしろかった。

私は、医師でも科学者でもないので、この放置療法の妥当性については、わからない。理論的な根拠となっている、転移がおきた時期の計算の仕方も、がん細胞が一定のスピードで増える、ということが前提なわけだけど、それって本当に?と思う。

ただ共感したのは、この本の前提、というか、著者の生死に関する見方だ。つまり、人間はすべて、いつか死ぬ、ということ。がんで死ぬか、その他の病気で死ぬか、老衰して死ぬか、事故死か、とにかく、遅かれ早かれ死ぬのだ。

だから、医療の目的というのは、

  1. 必要以上に早く死なないようにすること
  2. 生きている間、痛みや、様々な症状や、臓器などの機能不全や損失などで、あまり苦しまないようにすること
のふたつのはずだ。

このへん、現代医療には、ごまかしがあるような気がする。がんを治療すれば、ずっと生きられるような錯覚を、医者も患者もしていないか。

人それぞれ、寿命があるんだよ。

2の、生きている間の生活の質の問題は、老化や病障害があれば、若くて元気なころと全く同じ、というわけにはいかない。出来るだけいい状態、を望むしかない。そして、手術や薬は、この生活の質を落とす可能性もある。

実は、私の祖父は、別のこの著者を知っていたわけではないけど、同じことをしたんです。70歳代で、自分にガンがあるとわかった時、医者だったせいもあって、この年で手術を受けるのは大変だし、予後も必ずしもよいものではないから、と、何もしないことに決め、当時、まだ少しは仕事をしていたようですが、すべて辞めて、生まれ育った田舎のうちに戻って、残りの人生を、のんびり庭仕事しながら過ごすことにしました。

なぜか、その後10年くらいも生き延びました。

でね、私は、別に放置療法を持ち上げる気はないんですよ。ただ、そういう選択もあっていいな、と思うだけで。

各自が、いろいろな選択肢から、自分で選べばいいじゃないですか。

手術を選ぶ、ということは、手術に伴う危険(人間のすることだから、失敗もありうる)や、その後のリハビリの必要、リハビリでは治らないからだの変化、なども、同時に選ぶ、ということ。

放置(これにも、とりあえず様子を見る、という短期的な放置から、私の祖父のように、もうこのままでいく、と腹をくくっている長期的な放置まで、いろいろありうる)して病気との共存を選ぶ、というのも、それはそれで意味のある選択なわけで。決して、「悪い」ことをしているわけじゃない。

選択肢が広がって、各自が他の人の選択を尊重する、というのは、風通しがよくて、ラクな気がする。

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